もう今年の干支はゾウでいいよ、ゾウで。それくらい心の中がゾウに占拠されてしまった。正確に言うと「ゾウを取り巻く環境」がプラモデルになっているんですよね。ゾウがプラモになるのはギリギリ誰でも理解できると思う。デカいし、人気あるし。でもさ、デカくて人気のあるものだけがプラモになる権利を持っていたんだっけ?
ゾウは大きい、そして人気がある。これはゾウと対比できる建造物やそれを眺めて嬌声を上げる観客がいてこそ表現できるんだよな。ゾウがただそこにいるだけでは、ただの縮尺模型だ。情景というのは、ゾウの持つ特性をブーストしてくれる。
動物園の門とゾウを眺めるためのウッドデッキ。凱旋門とかブランデンブルク門ならデカくて知名度があるけど、想像上の動物園のプラモデル、ヤバくないっすか。石垣とか牛骨の飾り物とか、茅葺きの屋根とか。ウッドデッキに至っては、動物の説明パネルが並んでいなかったらもうログハウスかもしれないし滝を眺める展望台かもしれない。でもこれらはゾウを盛り上げるために絶対に必要だった。だから海洋堂はこれらをプラモにしたのだ。
もし「動物園の門のプラモデルです」って言われたら誰も買わないだろうけど、ゾウとセットで売られると「うわ〜、動物園のゾウだ!」という認識が生まれる。ここはサバンナじゃない。動物園なのだ。
パーツが分厚い。ひたすら重たい。金型というのはとんでもなく金のかかるものだが、それで動物園の建造物を作るというのはかなり勇気のいることだろう。頑強で美しい彫刻の門と、ウッドデッキがみるみる組み上がっていくのは本当に不思議な体験だ。さっきまで欲しいかどうかもわからなかったモチーフが、「いやいやいや、こんなものをプラモデルにしてくれてありがとう。しかもなんか、めっちゃ出来いいじゃん」とコペルニクス的転回を遂げる。組んだらわかる。すごいんだから。
ゾウだって当たり前じゃない。ゾウのプラモ、組んだことないし。そうか、口があってその上に鼻があって、牙は上顎から鼻の両脇に伸びる。言われてみりゃ当たり前なんだけど、こうやってバラバラにされると「ゾウの構造」といういままで考えもしなかったことが自分のなかに手応えとして残る。プラモって、可笑しいね。
ゾウを眺める人たちは1/35に縮んでいる。双眼鏡を覗く人、柵にもたれかかる人、柵の下段に手をついて身をちょっと乗り出すようにしている人、そして自撮り女子。4者4様、ゾウの楽しみ方はまちまちだ。もちろん柵の外にいるのはゾウじゃなくてもいい。キリンでも、戦車でも、驚くような宇宙船でも。観客がいて、見られる対象物がある。その関係性がプラモデルになっているのが面白いのだ。
ゾウ単体のプラモは必要だろうか?門やウッドデッキのプラモは?自分の食指が動かないものを捕まえて「誰得www」と笑うのは簡単だ。しかし、それらが合わさることで意味が変わることを忘れちゃいけない。いまこうしてゾウを取り巻く景色を眺めながら心の底から思う。「このプラモは、ほしかったやつだ」と。すべてはイマジネーションであり、順列と組み合わせだ。ただの縮小模型がお互いに情報を補強しあい、いままでありそうでなかった景色を作り出す。この世にプラモデルになっちゃいけないものなんて、ないのだ。