

リック・サルヴィーノは、模型メーカーになることにした。
自分が欲しくて仕方なかったキットが、あの日、どこからも出なかったからだ。
すべてはオイルショックが原因だった。時のカーター大統領の演説ではないが、石油エネルギーの危機は、プラモデルを愛好するモデラーにとってこそ自由の危機だった。第2次世界大戦終結後、戦勝ムードとそれに伴うベビーブーム、大量生産・大量消費社会の到来によって生まれたアメリカ車のプラモデルは、自動車メーカーと手に手を取り合い、ひとつ車軸の両輪としてお互いの事業を拡大しあってきたのだが、かつてビッグ3が述べた「わが社の未来の顧客のために、最高の模型を作ってくれないか」という熱っぽい愛の言葉は「わが社の看板で商売をするのだから、わが社に相応の対価を支払うのが筋だろう」という冷たい言葉に変わった。1977年のことだ。


続く1980年代は、アメリカのカープラモにとって厳寒の冬だった。何もかもがプラモデルになって迎えた1960年代のクリスマス、そんな時代がまるで嘘のようだった。
それでも気を吐く模型メーカーはあった。モノグラムは1953年来の最古参プラスチックモデルメーカーとしてのプライドと、こつこつ培ってきたストックカーレース・NASCARとの良好な関係を背景に「公式」のレースカーモデルを作り続け、冷え込む最前線にギリギリまで踏みとどまった。
それでも時代の冬は長く厳しく、あまたの善戦も及ばず、1980年代を飾る多くのレーサーがプラモデルになり損ねた。
そこで若き日のリック・サルヴィーノが味わった失望は深く、とても長く尾を引いたが、いつしか時代の成熟とデジタル・エンジニアリングの革新、それになによりとても義に厚い自動車部品エンジニアの友人たちの協力を得て、彼はついに身を起こす。サルヴィノスJRモデルズ、オール・プラスチック、オール・アメリカン・メイド。


彼が送り出すNASCARのプラモデルを、愛好家は敬意を込めて「サルヴィノグラム」と呼ぶことがある。かつて冷え込んだ時代にひたすら善戦し、ファンたちの希望をつないだモノグラムの姿を重ねあわせる言葉であると同時に、再販されることもなくただ倉庫の隅でその身を傷むにまかせていた旧モノグラムの金型の多くを、サルヴィーノがサルヴェージして甦らせたことへの賞賛もまたこの言葉には含まれていた。


実際彼らが手がけるプラモデルは、出てしかるべき時期から大きく遅れをとった様子など微塵も感じさせない、そりゃあ堂々としたものだ。この’83のシボレー・モンテカルロを見てほしい。憶えている者に幸いあれ、そもそも実車からしてNASCAR参戦以外をまるで目的としないかのようなスーパースポーツ・パッケージの再登場がこの年にはあったのだ。でもこのキットはファクトリーストック(市販車の仕様)に組めないじゃないかって? そりゃそうさ、当然だろう?
サルヴィノスJRモデルズが描くのは、彼らの志にただひとこと「イエス」と答えられる者だけが分かち合える世界だ。それはとても小さくて熱い世界。入り口は遠くここ日本においても、我々みんなに開かれている。
右も左もわからないなら、それは入り口をまっすぐ進む絶好のチャンスなのだ。