「プラモデルとはプロレスである」ということを鮮やかに見せられてしまった。これは反則だ。「プロレスラーがプラモデルになる」というのはギリギリ理解できるとしても、プロレスラーが実は金型メーカーの社長で、自分のフル可動/色分け済みプラモを設計、製造、販売するなんて面白すぎるだろう。こんなことをできるのは世界広しと言えどもスーパー・ササダンゴ・マシンだけである。リングの上でパワポでプレゼンするあの人だ。なんなんだ。話を聞かせてほしい。どういうことなんですか。
>1/12スケール スーパー・ササダンゴ・マシン プラモデル(BASE)
「誰に頼まれるのでもなく、自分で設計して自分で金型を彫って、そこにプラスチックを流し込んで出てきた成形品に自分で値段を付けて売れるんですよ。夢みたいな商品ですよプラモデルって……」と語るスーパー・ササダンゴ・マシン。確かに金型メーカーは取引先から「こういうもんをこれくらいの値段で作ってほしい」と頼まれるのが常だ。要求される価格やクオリティや納期で泣いたこともあっただろう。事実、坂井精機はここ数年赤字経営だったという。
ぶっちゃけ本人に会って話を聞くまで、オレはこのプラモを「金型メーカーが道楽でプラモを作ってみました。ちょっと出来が悪いけど、そこは冗談ということで許してちょ」みたいなナメたプロダクトだと思っていた。そして実際、出来が悪いのである。プラモデルの設計も初めてだから、何から何まで見様見真似、どうやったら安定した品質になるのか、どうすれば生産効率が上がるのかはすべて手探り。だからメーカー自ら「入手困難!組立困難!」を謳っている。
「世の中の人型のプラモデルがどうやって設計されているのか知らないので、すべてのパーツをいきなりCADで作っているんです。柔らかい曲面をCADで作るのって難しいんスよね」と真面目な顔で語るスーパー・ササダンゴ・マシン。3Dスキャンしたデータをもとにしたり、ポリゴンや点群を操って粘土細工のように原型を作るのが主流の現代において、なんたる無謀な挑戦だろうか。
しかし私はここで「挑戦する姿が眩しい」「ここまで頑張ったのがエラい」などと甘っちょろいことを言うつもりはない。このプラモデルは、手に入れて組む人全員がリングの上に立ち、スーパー・ササダンゴ・マシンと格闘するためのチケットなのである。
ランナーの記号はA、B、C……ではなく、サ、カ、イ……(スーパー・ササダンゴ・マシンの本名)である。ここで腹を抱えてぶっ倒れない人はいないだろう。ああ、プラモデルにはまだこんなにおもしろくできる要素があったのか!と驚く。当たり前だと思っていたプラモデルの概念に、スーパー・ササダンゴ・マシンは場外乱闘を仕掛けているのである。
いまいちピシッとしないプロレスラーの模型が完成し、それが本人に似ているとか似ていないとか可動範囲が狭いとか広いとか、手の造形が微妙とか、表面がヒケまくっているとか、そんな価値基準がすべてどうでもよくなるくらい、このプラモデルはよくできている。スーパー・ササダンゴ・マシンは造形やギミックといったプラモデルの「出来」に限界があることを自覚した上で、プラモデルで遊ぶことの面白さを徹底的にリサーチし、「パーツの外側」に盛り込んでいるのだ。
説明書そのものが面白すぎて笑いが止まらないプラモデルというのを、オレはほかに知らない。組立図にはメーカーが頑張ったところとユーザーに頑張ってもらいたいところを徹底的に記述している。先行量産したプラモデルを販売し、ユーザーが組み上げる過程で起きたトラブルやハックをTwitterから吸い上げ、金型や説明書に反映するという無茶苦茶なアジャイル的手法で編み上げられており、これがもう死ぬほど面白いのだ。パーツ表面のヒケ、設計があんまりスマートじゃないところ、うまく組めない可能性があるところの存在を明示して、それにどんな意味や解決策があるのかをすべて書いてしまう。モノの価値をナラティブでひっくり返してしまっている。
「自分でパッケージを作ってみて、上下が分離するテカテカした紙の箱に全面印刷している模型メーカーがいかにすごいか思い知りました。紙代も印刷代もすごい高いんですね!だからめちゃくちゃ考えて、ダンボールでも見栄えのするデザインを起こしました。完成写真と封はステッカーにして、スニーカーの箱に近い風合いにしたんです。坂井精機のロゴは印刷に見えるんですけど、コスト削減のためにハンコを使っています。ひとつひとつ手で押してるんで、ちょっと曲がってたりします。完全な家内制手工業ですね」
……ナラティブだ。プラモデルの箱の見栄えを、ストーリーで補強するどころか、それ自体に価値があるかのように思わせるプレゼンテーション。スーパー・ササダンゴ・マシン、プロレスラーとしても金型メーカーの経営者としても、プレゼンテーションがうますぎるのである。
こうした話をすべて頭に入れた上で実際にプラモデルを組む。抱腹絶倒と感嘆が交互に押し寄せる。すべてのパーツと、そのハメ合わせが愛おしいではないか。「よくこんな構造を思いついたな」「ここの設計は何を参考にしたんだろう」「いやそもそも初手からフル可動にトライしているの、すごすぎるな」「ここまで色分けできているの、冷静に考えたらとんでもないことだぞ……」と、次から次に褒め言葉が浮かんできてしまう。こんなのって、反則だ。
出来上がるのは哀愁漂う中年男のむっちりした背中。肩関節の微妙すぎるスイング機構や接地性ほぼ皆無の足首にも不思議とネガティブな感情は湧いてこない。……どころか、「合わせ目を消して全塗装をする」みたいなプラモデル然とした取り組みではまったく歯が立たない何かを手にしてしまったことに気がつく。これは完成したブツを手に入れたいという衝動とは明らかに違う体験だ。むしろ「プロレスとは何か」ということを考え抜いて身に付けた戦い方を、彼はプラモデルにも適用し、見事に昇華させているのではないか……と。
もっと言えば、スーパー・ササダンゴ・マシンのTwitterやnoteや彼を取材した新聞記事もこのプラモデルを構成する要素だ。たったひとつのプラモデルを徹底的なナラティブで世の中に広げ、「出来/不出来」の概念から解放し、手にした者を笑顔にする……。組んだ人はみな物語の輪に取り込まれ、そして共犯者となる。この記事でパッケージに仕込まれたすべての要素を書いてしまってはもったいないから、あとはあなたが目撃者になってほしい。買って、読んで、組めば、きっとあなたも何かを書くことになる。プラモデルとはただのばらばらになったパーツではなく、送り手と受け手のコミュニケーションなのであるということを、このアイテムは改めて教えてくれるのだ。
>1/12スケール スーパー・ササダンゴ・マシン プラモデル(BASE)