あの日見た松の枝ぶりを僕たちはまだ知らない。/プラモデルに木を植える話

 また金閣寺、まだ金閣寺なのである。草地、水面と来て、土台の仕上げは2本の松を植えるという工程だというのだから、手が込んでいる。普段プラモを作るのとは全く異なる筋肉を要求する童友社の金閣寺(に限らず、いろんな神社仏閣&城の模型たち)。誰でも真剣に挑めばゴールが見えてくるプラモと違い、ファジーすぎる工程がエキサイティングな行き先不明のミステリートレインとなって室町時代を駆け抜けていく……。

 さて松の作り方だが、説明書には「枝にウレタンをちぎって接着します。」と書いてある。確かに4cm四方くらいの緑色した薄いウレタン(スポンジ)がビニール袋に入っているので、言われるがまま細かくちぎっていく。ちぎった状態が上の写真である。

 子供の頃ならば「こんなもんやろ!パワー!!!」という感じで1cm大くらいにちぎっては投げ、ちぎっては投げしていただろうが、私はオトナなのでものすごく細かい(つもりの)小片を作っていく。このとき松という有機物の雰囲気を損なわないようランダムにちぎる……はずなのだが、ここで一句が生まれる。

 スポンジは 思ったとおりに ちぎれない

 最終的にピンセットなどを駆使してエイヤと細かくし、スポンジが本来持っている平面を露出させないよう、不定形な塊になるよう腐心する。スポンジは静電気を帯び、ピンセットに貼り付き、プラスチック製のトレイの周囲にポヨンポヨンと散らかっていく。プラモ、プラモってなんだ。振り向かないことさ。

▲枝のパーツである。茫洋とした平面に、ニョロリニョロリと枝が伸びる。
▲指パワーにより各枝の向きを多少なりとも立体感のある雰囲気に曲げる。

 松……最近松を見たのは芝離宮に散歩にでかけたときだ。池に枝をもたげ、美しく葉を茂らせるあの姿は人為的なものであり、松のエキスパートが何十年、何百年とかけて作り出した芸術である。……そういえば義弟(各種の木を取り扱う職人だ)が先日家に来て、松のエキスパートから贈り物を貰ったから礼状を書きたいなどと言って延々と自書の手紙を練習していた。松のエキスパートは現代っ子にそれほど畏敬の念を抱かせるものなのかと感心した。

▲プラスチックの緑ウレタン和え 〜瞬間接着剤のソースを添えて〜

 俺たちは雰囲気で松をやっている。こんなに松に見えない松が果たしてあっただろうか。私は半泣きでスポンジの形状を整え、学芸会の木の役みたいな松(と私が思っているもの)を植えた。もっと水平に広がる松の枝ぶりと葉の付き方をイメージして、スポンジは思うとるのの3倍細かくしておけばよかったと思ったところで、アフター・ザ・フェスティバルである。

 プラモの面白いところは、単体としての記号がしょぼい場合でも、なんかそれなりの借景によって謎の説得力が生まれるところである。水(のようなもの)があり、土でできた山(のようなもの)があり、草(のような緑の粉)の上に伸びるそれは、松の木だと信じられるオーラを確実に放っていた。ジオラマが沢山の人の心を打つのは、おそらくこうした「らしさの積み重ね」が和音となって響くからなのかもしれないとひとりごちる。

 スポンジは大量に余り、舞台は整った。いよいよ金閣寺の建立である。さまざまなプラモの冒険の合間に、こんな迷子のような時間が訪れるのも悪くないね。