感想文/カップヌードルのプラモデルを組み立てました

 いやはや、大問題作ですね。技術は使うもの。ただ、何に使うかによってこんなにあれこれと考えさせられるプラモが誕生してしまう。いつもみたいに「本物はどうなっているんだろう」とか、そんなことを考える暇もなく、ただひたすら「これはいったいなんなんだ!?」という動揺が自分を襲い続けました。

 すごいですよ。もじゃもじゃした麺の密度(上は密で、下が疎になっている構造)をプラスチックでうまいこと表現していて、ものすごくランダムで曲線的な造形が組み間違えもなくビタビタハマっていく様子。できあがるのは、見慣れた黄色いカタマリです。

 具材も現物に忠実。どこか遠い国に行ったり、資料を調べたりしなくてもコンビニに行けば誰でも確認できるアレが、そっくりそのままプラパーツに置き換わったものが入っています。ネギだけは弁当に入っているバランの細長いのを自分でカットする仕様だけどね。

 とくに固定されるわけでもない具材たちは、カップのなかで麺の上にパラパラと乗せることになっています。色もカタチも良く出来てるけど、果たしてなんでこれはプラスチックに置き換わっているんだっけ……という。

 そんでもって、このプラモの殆どのパーツがパッケージである「カップ」を表現するために費やされています。ものすごい精度、ものすごい分割。たしかにこんなプラモは見たことがない。

 白と赤と麺の色を見ていると「案外リボーンズガンダムに似ているな」とあらぬ方向に意識が持っていかれますが、無心でパチパチと組み立てていくと、ものすごく見知ったカップが出来上がっていきます。

 プラモがなんでプラモなのかをたまに考えるのですが、「立体的なモチーフを大量生産するいちばん安くて確実な方法がプラスチックを成形することだから」だと思うんですよね。たとえば粘土をこねたり、ペーパークラフトにしたり、ガラスや金属を鋳込んだりしても立体物を共有することはできますが、誰もが確実に組み立てられて、安価に安定した製造手段がプラスチックモデルという形態なんだと思うんです。

 どっこい、いまオレが組んでいるのは……たしかにカップは立体ですが、本質的には印刷物ですよね。カタチを再現しているというよりも、印刷物をバラバラにしたものを、立体的にハメあわせている。印刷というのは平面に大量に同じ表象を定着させるために開発された超安価な技術ですが、それを立体物として解体&再構築するというめちゃくちゃに倒錯した現象が起きているわけです。

 でも、プラスチックの成形品では再現できないところもあったりして、そこはシールで補ったり、本物の印刷物(これもなぜか表記が本物と違う行送りになっていたりして、コピーできたはずなのにあえてしていないという不思議なことになっています)が入っている。

 麺や具材を除くと、このプロダクトは「印刷物」と「プラモ」の両側面を持ち合わせ、その間でブルブルと振動するめちゃくちゃ定義の難しいモノに見えてきます。しかも「本物」は誰でもコンビニに行けば1/10くらいの値段で手に入れることができる……。

 プラモを愛する理由として「プラモは逆立ちしても本物が手に入らないものを所有する楽しみだ」とか「小さくなっていることに精密感を覚える」といった意見をしばしば目にしますが、このプラモはそのどちらにも当てはまらない。ひたすらに知っている、ひたすら簡単に手に入るモチーフがプラモを作るための技術によってバラバラにされて、ランナーに収まっています。

 確かに組み立てているときに「なるほど、よく考えたなぁ」と感じました。しかし、組み上がったら本物と見分けのつかない何か(それは食べられないし、ありふれたマスプロダクトのイミテーションでしかない)に変貌してしまいます。ただひたすらリアルに、確かな技術で作られ、絶対に誰でも完成させることができるプラモでありながら、同時に「プラモのワクワクは組む前の姿、組み上げる過程にしかないのじゃ……」と語りかけてくるようなこの感覚は、果たして僕だけのものでしょうか。

 「良く出来てる!」「技術がすごい!」という褒め言葉はもちろんだと思います。ただ、ハコを開けた時、組んでいる時、組み上がった時にみなさんがどんな気持ちになったかに注目してください。もしかすると「どうしてオレはプラモが好きなんだっけ!?」「なんでプラモって楽しいんだっけ?」と考えるきっかけとして、これ以上のプラモはないかもしれませんよ。