
天才の脳が函数だったとして。天才ではない私たちが観測できるのは、たいていその「出力側」だけである。完成されたメカ、洗練された設定、抗いがたい説得力を持つビジュアル。それらはいつも美しく整えられ、提示される。しかし、その函数に何が入力されているのか、あるいはどんな景色が流れ込み、なにを切り取り、どこで増幅されているのか。そんなカオス的なインプットとそれに伴うザラッとした感覚に触れられる機会は少ないといっていいだろう。いま私がもっとも読むのを楽しみにしている雑誌連載がまとまった一冊。大日本絵画から刊行された『宮武一貴のアド・インエクスプロラータ 明後日の空へ』は、その貴重な「入力側」を観覧する特等席である。

宮武一貴という多才な人物の名前に触れたことがある人間なら、まず「かっこいいメカ」を思い浮かべるだろう。それは間違っていないのだが、この本を開けばそれらのアウトプットはあくまでもプロセスの最終結果にすぎないことを思い知らされる。本書に掲載されているのはアニメの設定画や小説の挿絵のような完成形ではなく、観測と思索の連続だ。航空機や自動車といった具体的な対象を足場にしながら、重力と揚力、機能と形状の因果、あるいは人間が「それをどう見るか」という認知の仕組みにまで潜り込んでいく。つまりこれは画集や設定資料集ではなくて、もっと生々しい「天才の視線のログ」なのである。
ページをめくるたびに、宮武一貴が何に絡め取られ、思考を巡らす羽目になったのかを我々は目の当たりにする。普通なら見過ごしてしまうカタチ、ディテール、運動に対して、彼は執拗に目を留める。それらはやがて別の何かと結びつき、思考の中で変形し、思いもよらぬカタチで出力されることになる。読んでいるこちらは、その変換過程の途中に立ち会うことになるのだ。そして厄介なことに、挿入されるイラストがその過程のすべてを裏付けてしまう。理屈として語られていることが、そのまま圧倒的な説得力を持ったビジュアルと強固に接続していることに慄き、憧れ、嫉妬してしまう。

本書には、現在進行系で『スケールアヴィエーション』に連載されているコラムだけにとどまらず、SFマガジンの連載『スターシップ・ライブラリイ』や月刊コミックノイズィの連載『アドバンスト・アプサラス』といった過去の仕事も収録されている。前世紀に完成されたアウトプットとして既知であるはずのものが、この本の文脈の中に置かれることで時代を超え、再解釈できる仕組みになっているのも極めて面白い仕掛けだ。
本書の宣伝文句には「半世紀にわたってSFと向き合ってきた」とあるが、その時間の長さはもちろんのこと、いまも変わらずキープされている宮武の視線の粘度に圧倒される。世界を眺めることをやめなかった人間の記録。観察し、考え、仮説を立て、自分のものとして描き、そしてまた観察に戻る。私にとってこの本は、「必読の一冊」と言うよりも、危険物に近い。己の世界を見る力の弱さを思い知らされると同時に、「もっとしっかり見て、徹底的に考え、覚え、いつでも引き出せるようにしておけ」と言われているような気すらしてくる。

天才のアウトプットに憧れるのは簡単だ。しかしこの本が見せてくるのは、その前段階にあったもの──すなわち、取り返しのつかないほど地道で、しかし決定的に偏執的で、異常な、ねちっこいインプットの積み重ねである。ハセガワのヌージャデル・ガーを組み立てながらこの本に出会えたことは僥倖というほかなく、宮武メカ(あるいはそれを成立させるロジック)の虜となった自分の来し方行く末を照らしてくれるような、素晴らしい読書体験がここにはある。みなさんも、ぜひ。