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万物の模型化と、模型の媒体化。/古賀学 個展『OPEN TO THE PUBLIC』

 博多。自分以外に歩いている人がいないほどの日差しを避けるために入った極上のとんこつラーメン店は、その日の最高気温と最高湿度の記録を更新する異常空間だった。風呂に入りながら麺をフーフーするような状態では、空気と体温とラーメンのどれがいちばん高温なのか判断することもできなかった。

 ラーメン店を出てまもなく降り始めた局所的な豪雨は傘を差していても呼吸ができないほどで、ギャラリーの階段を上がって鉄の扉を開けると、コンクリ打ちっぱなしの天井と白い壁。水の中に浮かぶ女の子と、こだまするスキューバの泡の音。体の内外はおろか、ギャラリーの内も外もほとんど水の中に近い状態で、古賀学 個展『OPEN TO THE PUBLIC』は最終日の前日を迎えていた。

 いまや古賀学といえば『水中ニーソ』という人も多いだろうが、個展は氏が幼少期に描いた絵の複写から紡ぎ出される。キラキラと輝く水面で散乱し、虹色に分光した陽光が水底にゆらめき、たゆたうダイバーの髪の毛。体に取り付けられたダイビング器材と、各パーツから引き出し罫を使って書き入れられた解説文。5歳の古賀少年にとっての「カッコいいもの」は、すべてそのなかに凝縮されていた。水中にいる人間が愛おしい。水中にしか存在できない愛の対象は、標本化され、解説図や写真や動画というメディアによってのみ保存され、永続性を獲得する。それはすなわち、我々が飛行機や戦車やロボットを模型に置き換えて手中に収め、慈しむのに通じる。

 ’90年代前半、職人にのみ許された写植からツールとしてのDTPが万人に開放され、デザインを学ぶ身であった古賀は編集の愉悦に浸った。後にビッグネームとなるアーティスト達のインプットとアウトプット(それはインターネット前夜においてベールに包まれ、どことなくアンダーグラウンドな雰囲気のあるものだった)を文字やイラスト、写真を交えて印刷物にし、誰に頼まれるでもなくオープンなもの……つまり、パブリックに認知可能な状態に翻訳し、”拡散”することに没頭したのだ。

 模型少年でもあった古賀は、プラモデルの製作過程よりもその成立と見せ方に興味を持っているように見える。対象がパーツ化され、複製され、誰にでも組めるように説明され、広くばらまかれ、体験として消費されながらも再現性と永続性を持つこのメディアを古賀は表現手段のひとつとするため、「存在しないプラモデルの説明書」を月刊モデルグラフィックス誌上で展開していた。

 この世のあらゆるものを工業的要請と美的感覚に従って分割し、その復元過程をユーザーに委ねるのがプラモデルという娯楽の本質だ。したがってプロダクトとしてのプラモデルは工場出荷時に完成しており、ユーザーがそれを組み立てることで(さらには塗装を施すことで)本来企図されたデザインが2度目の”完成”を迎える。

 こうした複雑なプロセスを踏む多重的なプラモデルの文脈において、説明書はプロダクトとしての概要を示し、その復元方法を可視化する極めて重要な役割を果たしている。プラモデルに説明書が添えられていなければ立体パズルと化してしまうことは容易に想像できるだろうが、だからこそ「プラモデルの本質は説明書にこそある」と言っても過言ではない。

 古賀はこうしたプラモデルの成立条件を逆手に取り、プラスチックパーツの存在しないプラモデルの説明書を多数描いてきた。日常にあふれる「プラモデルになっていないモチーフ」を抽象化し、分割し、組み立てる過程を描いたアートが模型文化の軽薄な剽窃になっていないのは、彼自身がプラモデルの実作者であり、そのパロディにおいて工業的に成立し得ない空想は無効であると自覚しているからにほかならない。それどころか、実在するプラモデルがヒロイズムや大衆的な知名度に大きく寄りかかっていた前世紀から、弱きものや無名のものをモチーフに求めて広がりを見せる時代へと緩やかに変化を遂げている(また、その説明書のデザインを現在の古賀が旺盛に手掛けていることも見逃せない事実だろう)。

 戦争や資本主義と切っても切れぬ関係にあるプラモデルから、いかなるものも批評可能なメディアとしてのプラモデルへの変化。こうした前提を以て古賀がかつて世に問うてきた作品を改めて振り返ってみると、「この世のあらゆるものがプラモデルになる権利を持ち、それらがやがて豊かな世界をもたらすはずである」という氏の楽観的かつ真摯な思考が読み取れるはずだ。

(上記は個展のキャプションより。執筆/からぱた)

 本来作者を問われることのないプラモデルの説明図をアートとして捉え”作品”に仕立てる。古賀が説明書の作図からレイアウトまで手掛ける海洋堂のプラスチックモデルシリーズ「ARTPLA」は、強いものやカッコいいものだけでなく、そのモチーフを動物や民間人、果ては芸術作品にまで広げることによって独創的なプラモデル世界を作り上げている。

 同社の創業者、宮脇修の「創るモノは夜空にきらめく星の数ほど無限にある」という言葉を引くまでもないだろうが、かつて古賀が夢想し、架空の説明図を作ることで予見していた「あらゆる事物の模型化」がここに現実化し、「パブリックなもの」と「プラモデル趣味」の境界を曖昧にすることで生まれるむず痒い興奮を見る者に与えてくれる。

 カメラのレンズが辛うじて入れる大きさのギャラリー、縮尺模型と人物の画像合成、バスタブやプールの模型の中にはめ込まれた画面に映し出される水中の女の子。自身もモデラーである古賀は、自らの作品や展示風景そのものを模型化することによって現実空間と映像、ライフサイズとミニチュア、水の向こうと画面の向こうといった境界をこれまた曖昧にする。同時に、水にたゆたう女の子が小さくなり、メディアに固定され、手中に収まり、被写体の何もかもを知悉したかのごとき全能感を鑑賞者に与える。これもまた、模型の持つ効能をよく理解した作者による認知のハックと言えるだろう。

 蠢く水、流れる夜景が実在/非実在の少女を彩る。古賀が手掛ける近年の作品に限らず、カルチャーのメイン/サブの区分自体が時代遅れになりつつあるなかで、何をパブリック(=サブではない事象やマインド)とするかは定義しづらい。会場に展示された無数の過去作品は、フェティッシュやマニアックさの持つ熱量と熱的平衡にある”パブリック”との境でその弁を適切に開閉し、両者を調停することが確かに「OPEN TO THE PUBLIC」だった時代があることを示している。

 反面、情報的な均衡が個人やコミュニティのエネルギー密度を徹底的に分散させ、なにもかもが「多様性」の名の下にパブリシティを獲得し得る現代においてもそのスローガンが有効であるかどうか……というのを考えさせられる。おそらく彼自身の中にはまだ開くべき岩戸がいくつもあり、(あるいは未知の岩戸を探して)カルチャーの海を深く広く潜り続けていくだろうから、私がそれを心配する必要はないのだろうけど。

 古賀学個展『OPEN TO THE PUBLIC』はリアルなギャラリーにおける会期が終了した現在も、VR空間で鑑賞可能だ。巨大な空間(のコンピューター内に構築された模型!)に展示された彼の40年以上にわたる世界の捉え方と、アウトプットの方法。なにより可愛く、美しく、楽しい作品群はいわゆるアート作品としても、プロダクト的な文脈でも味わえるものばかり。それぞれに付された贅沢なキャプションとともに「僕らはどうして模型が好きなんだっけ?」「模型を通じてどんなものを見たいんだっけ?」というのを考える時間はとても楽しい。古賀学worksを知る人もそうでない人も、電脳空間に構築された個展の模型が存在しているうちに、ぜひとも訪れることをオススメする。

“VR” OPEN TO THE PUBLIC

からぱたのプロフィール

からぱた/nippper.com 編集長

模型誌の編集者やメーカーの企画マンを本業としてきた1982年生まれ。 巨大な写真のブログ『超音速備忘録』https://wivern.exblog.jp の中の人。

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