プラモデルの特異性/ICM エアクラフトシリーズ 写真を撮るUSAAF パイロット

 手に収まる大きさで多数の機能を備えているスマートフォン。その機能の一つとしてある「カメラ」という機能は、かつて共に収まるコンピューターや電話,時計の機能が巨大であったように「カメラ」も巨大であった。しかもただ大きいだけでなく、今のように撮影した画像がすぐに見られる訳でもなかったために「写真を撮る」という行為はとても労力がかかり、特別な時にしか執り行われない儀式であった。

 そんな儀式を執り行っている様子がそのままプラモデルになっているキットを新入荷コーナーで見つけて、思わず手に取った。そのキットの箱絵上ではこれから搭乗するのか、それとも帰ってきたばかりなのかそこは定かでないけれど、パイロットが飛行機と共に撮影している様子が描かれていた。新しい機体のテスト飛行が成功したからか。はたまた戦地に赴く前の生前の姿を収めるためだろうか。思案が色々と巡るけれど,風合いの良い革ジャケットの合間から覗くネクタイから正式な撮影なんだと感じた。

 その厳粛な空気感に半ば圧倒されながらも、平面的な箱絵から立体的なプラモデルへと認識の転換を行いたいという気持ちからレジへと向かった。

 フランスの哲学者ロラン・バルトによる写真批評『La Chambre claire』(日本語訳『明るい部屋-写真についての覚書-)を読んだ際に、写真は「撮影者」・「被写体」・「観客」の3つに区分できると書かれていてとても腑に落ちた。3つの役割をこのプラモの箱絵に当てはめて考えると、カメラを携えているものが「撮影者」であり、カメラに向かって立っている者たちが「被写体」、そしてこの様子を眺めている今まさに自分が「観客」ということになる。

 このキットを買った段階では私は「観客」に過ぎない。ところが組み立てていくと最初は「観客」であるが、キットを組み立てている時は「被写体」の創造主となり、完成した暁には「撮影者」へと変容を遂げる。つまり、ロラン・バルトが唱えた三つの視点を一つのプラモデルを通して体験できるということだ。

 映画を観て感化され、映画監督を目指し、最終的にエンドロールに自分の名前が載るようになる場合もあるがそれにはかなりの時間と労力を要する。「観客」として、「被写体の創造主」として、そして「撮影者」として。これら三つの役割を短いサイクルで繰り返すことは大変なことである。

 けれど、プラモデルを組み立てている間にこれらの視点を意識しながら作っている感覚はなく、無意識下で自然に行ってはいないだろうか。私はそんな気がしてならない。

 かつては製作を終えたら棚の上で埃が積もる未来が待っていた完成品は、SNSやブログに投稿するという終着駅ができてから少なくとも写真は風化することなしに永遠の輝きを保つようになった。

 出来上がった物を簡単に撮影ができ,共有ができる時代。大判カメラに向かっていたパイロットの彼らは空よりも広い「インターネット」という世界が存在する未来をどう捉えるのだろうか。

<a href="/author/alcyone0114/">空韻</a>
空韻

フィルムとデジタルを往還する日々を通して,写真表現を模索しています。生活の中でプラモデルを床の間に飾る生け花のような彩りや四季を感じる存在として据えるのが目標。