Excusez-moi, Eiffel!/満を持して、「エッフェル塔のプラモデル」を買う。

 人生を変えた本を選ぶとするなら、その一冊に松浦寿輝の『エッフェル塔試論』を挙げることにしている。著者の異様とも言える執着ぶりによって、エッフェル塔という建造物の特異性があらゆる角度から吟味され、表象文化論を軸足に展開される愛憎入り交じった真に批評的なこの一冊は、私がなぜプラモを作るのか、プラモを通して何を得ようとしているのかを常に考え続けるきっかけとなった。

 文庫版では変更されてしまったが、単行本のカヴァーはエッフェル塔の真下から撮影された写真が採用されていて、4本の精緻な鉄の脚が美しいシンメトリーを描いている。記号、イメージ、表象というテーマでものごとを考えるときに、幾度となくこの本を書棚から引っ張り出してはこの表紙を眺め、自分の貼り付けた付箋を頼りに目的の節を探してページを繰るのだ。

 人生の半分以上の長い時間において自分に影響を与え続けてきたアニメの完結編は、『エッフェル塔試論』のカヴァーの写真と全く同じアングルから始まった。事前に公開されていた映像でもそれは分かっていたことなのだけれど、映画館で見る真下からのエッフェル塔は、あまりにも衝撃的だった。そんなはずはないと知っていても、あのファーストカットは自分のために用意されているかのように思えた。

 「なるほど、モナ・リザがルーヴル美術館にあるように、エッフェル塔はシャン・ド・マルスにある。だが、シャン・ド・マルスのエッフェル塔自体が、つまりそのもの自体が、実はすでにエッフェル塔の模型なのではないだろうか。」

 『エッフェル塔試論』において最もエキサイティングな一節が、庵野秀明と宇多田ヒカルの手によって鮮烈なビジュアルと確固たる文脈をもって私の脳裏に蘇った。その瞬間、ただちにエッフェル塔のプラモデルを自分の手に収め、自分の家にもエッフェル塔を建てなければならない、と強く思った。

 フランスのエレール社がエッフェル塔をプラモデルにしたのは、多分に土産品的な意味合い(=真にプラモデル的な経済的動機とキッチュな感覚)に基づいたものだろう。だから、私の脳内にある繊細で重厚なエッフェル塔のイメージを再生する媒体としては力不足なはずだ……と思い込んでいた。しかし、届いたハコを開けるとそこには美しいベージュのパーツたちが整然と並んでいた。

 優美な曲線、東京タワーとは決定的に異なる前時代的な鉄の建造物を支える構造。微細なリベットのディテールが規則正しく入れられた鉄骨を眺めると、読書や映画の体験がそこに刻み込まれているかのような錯覚に陥る。有り体に言えば「出来の良いプラモデルのパーツ」がそこにあるのだ(実際に組み上げたときに、初めてそれが本当かどうか分かるのだが……)。

 いまだに私はパリに行ったことがないし、これから行くことができるかどうかも怪しい。だけど、シャン・ド・マルス上空で繰り広げられた心躍る戦闘と、私の思考の礎となった読書体験をこうしてプラモデルが繋ぎ、大事な思い出を噛み締める時間を与えてくれる。

 目で見た何かを再現するために作る外的なプラモデルもあれば、心の中に散らばったいくつかの光景をひとつのコンテクストに繋ぐために作る内的なプラモデルもある。もしあなたにもそんな出会いがあったなら、どうか僕らにも話を聞かせてほしいと思うのだ。

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からぱた

模型誌の編集者やメーカーの企画マンを本業としてきた1982年生まれ。 巨大な写真のブログ『超音速備忘録』http://wivern.exblog.jp の中の人。