
自宅には私のお気に入りの立体物をすし詰めにしたガラスケースがあり、そこにはいくつかのガンプラの完成品が飾ってある。3歳の息子はたまにガラスケースを覗き込んではヴァージョン違いのRX-78を指差し「このガンダムとこっちのガンダムは違うね」と鋭い指摘をする。ある日曜日の朝、私は息子に「ホンモノのガンダムを見に行こうか」と声をかけた。ホンモノ? いったい何が?

お台場に到着してユニコーンの立像の前に連れて行くと、「なんでツノがひとつなの」「なんでお顔がないの」と質問攻めを食らう。フードコートやおもちゃのポップアップストアで時間を潰し、頃合いを見計らって何食わぬ顔でふたたびユニコーンの前へ。爆音で鳴り響くBGMと効果音に慄き、バナージの声に面食らい、全身の装甲が開いてサイコフレームが赤く光り始めると3歳児はあんぐりと口を開けて一歩後ずさった。そのままフェイスが差し替わり、ツノが割れ、変身が終わる。3歳児は「ガンダムになったねぇ……」とつぶやきながらその姿を見つめていた。私はそんな息子の反応を見て、心底羨ましいと思っていた。

考えてみれば、私にとってガンダムという物語とその立体物は物心付いた後からやってきたものであり、特撮やアニメにほとんど触れずに過ごした幼少期のお陰で「SDガンダムの元ネタって戦争モノのSFアニメだったのか!」「虚構の物語とそこに登場するメカに対して、オトナがここまで真面目に取り組むものなのか!」というメタな入り方をしてしまい、私とガンダムとの関係はそこからこじれっぱなしである。
私はこのユニコーンガンダムが歩かないし飛ばないし戦わないことを知っている。でも、もしも巨大な人型ロボットが歩き飛び戦うことを夢見るのならば、プラモデルをどういう態度で嗜むべきなのか……という呪いみたいなものに囚われ続けていて、たとえばその昔、お台場に「私の思う”リアル”」とは違う姿形のRX-78-2の立像が立ったときにはその存在を憎みすらした。

ユニコーンガンダムのデザインはそんな私にとって、どういうわけかそのまますんなり受け入れられる不思議な存在だった。リアルかそうじゃないかを気にせず(それが好きかどうかはさておき)物語をあるがままに浴び、先にプラモデルとして提示されていた「正解のカタチ」がそのままでっかくなってお台場に立っていることに対してとくに違和感も覚えなかったし、むしろお台場に立っているまんまの固定ポーズのプラモデルが発売されたときには「これぞガンダムのスケールモデルじゃん」と興奮してしまったくらいだ。これまで何度見ただろうか……とクラウドを掘れば、お台場に行くたびにその写真を撮っていたことに改めて気付かされる始末。しまいには我が子に「ホンモノのガンダム」という言葉でその大きさや存在感を伝えていることに我ながら驚いてもいた。

息子がお台場のユニコーンが変身するのを見て、「ハリボテだ」と思ったか「ホンモノだ」と思ったかはわからない。しかし、なにが現実でなにが虚構か未分化な状態の3歳児が受け取った巨大なユニコーンの印象だけは、「リアル」なものとして残るのだ。飛行機や機関車やでっかいフェリーと同じように、「なんだかとてつもないものを見た」という記憶がいつか他の知識や経験と結びつき、あとでその思考に大きな影響を与えるのだろう。8年11ヶ月にわたりお台場にいた実物大ユニコーンガンダム立像は、今月末でそこから姿を消す。私が囚われていた「ガンダムのリアルってなんだろね」という呪いを解いてくれた偉大な存在であると同時に、まだ小さな息子に衝撃を与えてくれたモニュメントに、私は正直惜別の念を抱いている。