さる3月26日、48年にわたって続いた長寿番組、『おかずのクッキング』が最終回を迎えた。土井善晴は父の勝からバトンを受け継ぎ、時間に追われる現代人のために料理の真髄を軽妙な口調で、じつに30年以上も語り続けた。その副読本として売られているテキストの最終巻を買って読み、私はあまりの内容に絶句し、風呂場でKindleを握りしめたまま、ちょっと泣いた。
これは全日本人が読むべき「暮らしのなかに組み込むための料理のバイブル」であると同時に、忙しい自分と心豊かに暮らす自分を両立させるための……つまり、プラモを作るときのテキストとしても最高に役に立つ一冊なのだ。
土井先生の考え方はこうだ。人間は食事を作っている「暇」なんかそもそもない。毎日生きるのに必死な中で料理をするのだから、そのベースにまずは一汁一菜の考え方を取り入れるべきである。米を炊いている間に味噌汁を仕立て、そこに手近なものを入れて食べればおのずと一汁一菜になる。まずはそれを食事の基本だと受け入れた上で、そこに何かを添える。すると一汁一菜を超えた「贅」が生まれる。
そもそも食べ物や衣服の「贅」と「貧」は古来から伝わる「ハレ」と「ケ」を使い分ける知恵なんやで……という考え方が俺の心に沁みまくる。 毎日「あれもやらねば、これもやらねば」と言っていると、そもそもキッチンに向かうことがしんどくなって、食そのものへの態度がかえって貧しくなってしまう。プラモだって……いわずもがなだ。
かといって、土井先生は「料理なんて不味くても食えればいいんですよ」とか、「雑に作ったらいいんですよ」とか、「楽しければいいんですよ」とか、「人それぞれですよ」とか、あまつさえ「自由にやりましょう」なんて、絶対に言わない。おいしいとはそもそもなにか、真の意味における「適当」とはなにか、複雑にならないシンプルな方法はなにか。限られた時間のなかで、丁寧にやるべきことの基礎を教えてくれる。そしてそこから一手を加えれば作れるバリエーションも示してくれる。さらには、出来上がった料理を前にしてそれを慈しむ「構え」を教えてくれる。
たとえば「まず炊いたご飯をおにぎりにするとき、手に醤油をまぶしてから握ってみましょう。コメに色がついているとテンションが上がりますよね。コメに味が付くから、おかずをあれやこれや用意しなきゃというプレッシャーもなくなる。ついでの時間に味噌汁を作れば、まずはこれで料理として十全なんですよ」という調子だ。これにもう一品付けたら、ほら豪華な食卓でしょ?と。
料理にせよ、限られた時間で自分の腹や気持ちを満たすときにせよ、こうしたスタンスはすごく具体的で有用で、どこを楽しめばいいのかがはっきりしたハウトゥ……つまり、本当の智慧だと思う。
食べることは生きるために必須のことなんだけど、それを考えたらプラモを作る「暇」なんてもっとないことに気づく。でも、ながく趣味として付き合いたいなら当たり前に作って当たり前に暮らしの中にあってほしいなと思う。むろん、「プラモを適当に作ろう」と言いたいのではない。まずは組むだけでずいぶんおもしろいものだと捉えて組むことを楽しみ、その先に一手加えることの贅沢さをじっくりと味わいたい。
土井先生だって、何も「貧しく暮らせ」と言っているのではない。めいっぱい料理をしたいときには、それまでに蓄積してきた知識やテクニックを動員すれば贅沢な食卓を作ることができるし、外食すれば自分の家では食べられないめくるめく贅沢が味わえる。その基盤となる日々の味をしっかりと身に付け、料理へのスタンスを確たるものにすべし、という話だ。
もちろん、高いスキルを身につけ、使える時間をなんとか捻出して素晴らしい作品を作り出すモデラーもたくさんいるし、それは素晴らしい努力の上に成り立っているはずだ。例えて言うならそれは料理の達人。土井先生はいつだって、現代の時間のない人々やご飯を作ろうにもどこから手をつけていいかわからない人々に向かって、どこまでをどう作れば、どう味わえば幸せであるかの定義から話をしてくれた。
もしプラモデルを前に「時間」とか「スキル」とか「置き場所」といったファクターを理由にして億劫な気持ちになっている人がいたら、このテキストを読むことを心からおすすめする。土井先生の美味しそうなご飯の写真の横に、「日々の暮らしの中で自分ができることをするため(そして自分の機嫌を取りながら心身ともに健やかに生きるため)のヒント」がこれ以上ない優しさとともに綴られている。その一節一節を噛みしめるように読めば、きっとすぐにニッパーを握りたくなるはずだ。
模型誌の編集者やメーカーの企画マンを本業としてきた1982年生まれ。 巨大な写真のブログ『超音速備忘録』https://wivern.exblog.jp の中の人。